文芸創作を行う学生のつどいです。文学フリマに出展します。
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劇場版名探偵コナンについてのいくつかの覚え書き
 
この前映画を観た後にすぐノートにメモったんだけど、ちょうど今日時間あったから、パソコンに入力した。


◎コナンが取るべき新しいキャッチ・フレーズ→「見た目は子供、頭脳は大人、身体能力はスーパーマン!」

 どんどんアクションシーンの演出に凝るようになって、そのスケールも凄まじいほど大きなものになっている。最新作のこれについて言うならば、地 下鉄、ダムの爆破など。そしてそれらのシーンの迫力を保証している、あるいは可能にしているCG技術をたくさん取り入れている。そのためか、ストーリー自 体のボリュームは前作より幾分薄いものになった印象を受ける。

 ストーリーのサスペンス感よりもアクションのような直感的身体的な興奮を求めるようになるのは全体的な傾向=スポーツ的な興奮
→緻密な推理による知的な快楽よりも、直感的なスペクタクル映画への転換。

◎工藤新一のアイデンティティを維持するのは何か。
 あるいはこう問うべきかもしれない。すなわち、コナンというかつての自分とはまったく違う外見、違う年齢、違う社会身分になってしまうことによるアイデンティティの崩壊はなぜ起こっていないのか。どのようにして工藤新一はそれを維持しているのか。

・博士の技術的援助により、部分的に工藤新一としての要素を取り戻している。蝶ネクタイ型変声機など。

・強迫観念としての事件解決欲
 
正義を貫くというより、コナンの病的とさえ言える推理ぐせは工藤新一という人格に接触を保てるための手段である。頭脳は変わっていないことを証明すること。

 しかしながら、コナンが数々の大事件を超人のように(頭脳的にも身体的にも)解決してきたにも関わらず、決してかつての工藤新一のように脚光を浴びることはない。事件解決後のコナンの手柄に対する周りからの呆れるほどの無関心。それはなぜか。
→コナンというアイデンティティの魅力はもし工藤新一のそれよりも大きなものになってしまったら、工藤という物語の帰結たるべき場所のその重要性、それに対する期待が薄れて、物語の目的性の欠如をもたらしてしまうからだ。

◎とはいえ、コナンは果たして完結するのだろうか。

 完結しない可能性は大。というのは、名探偵コナンという物語システム自体はエピソード型のオープンシステムであるから、無限に続くことが原理上 可能である上に、名探偵コナンの産業はあまりにも巨大になりすぎていて、アニメの利権、関連グッズの利権、映画の利権、海外でアニメや漫画を提供する会社 の利権などなど、あまりにもたくさんの人を巻き込んだ一大事業体になってしまっている。もはや漫画の作者自身が完結させようとすればできる状態にはないのだ。


よー
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(4月27日)2Nくんの詩と短編

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いまだに春休み中の早稲田で部室に集まり、創作部会・合評会を開催。

2Nくんと、3Nくん(創作部会チーフ)の作品を読めるということだったのだが、3Nくんが抜き差しならない事情で急遽休むことに。2Nくんの短編「赤い靴」、詩「日曜の午後」をみんなで読みました。3nとか2nとか、数学みたいだ)

集まった部会員は2Aさん、2Hくん、3T(筆者)。創作部会員だけでなく、3Hくん(幹事長!)、2Mくん、2Iくんと揃い踏み。


2Nくんの「赤い靴」は読点を一回も使わない意欲的な作品。

でも「読みにくい」「どうしてそうしたの」「読点を使わない文は読点使わないなりの言葉の使い方があるものだが、これはふつうの文章で読点を省いただけ」とかいろいろ言われてましたねー。

でも、雑踏の中踊る少女とそれを眺める「私」という構図が明快で、2Nくんの描きたいものはしっかり伝わっておりました。


読点使わず一段落が長いあたりからみんなこぞって「舞城みたいだ」「『春琴抄』読みなされ」「横光の「機械」もあるよね」「福永信っていう人がいてね、『星座から見た地球』って作品が最近出たんだけど」と、心優しい2Nくんにどんどんオススメしていく会に。その他、文体だけでなく内容・モチーフの点から「吉田修一の『パレード』とね通じるものがあるよ」「太宰の『猿ヶ島』もあるね」「戸梶圭太『牛乳アンタッチャブル』!」「中原昌也みたいに持ってくこともできるんだよ」などと、こんなに他の作家・作品を思い浮かべるのも珍しいですね。果たして2Nくんは全部読んでくれるのか。(ちなみに今思いついたが、ペーター・ハントケ『私たちがたがいになにも知らなかったとき』っていう無言劇もどうだろう。これは薄いよ。読みにくいが)

2Nくんはミヒャエル・エンデ『モモ』森博嗣を念頭に置いたみたいですね。


一方「日曜の午後」はというと、午後のイメージと「黄金の樹液」「琥珀」のイメージをからめた快作。

それでも「要らない言葉を削れ!」「〈ぼくら〉って要らない」「イメージが詩のなかで展開してないんだ」「一人暮らしの身からは共感できない」などなど色々言われてましたー。いろいろ文句言ってましたが、自分が中高生のときに書いたような詩と比べるとね、もうほんと詩だよね、2Nくん、詩書いてるよ。小池昌代読んでね。『コルカタ』はスルーして、『ババ、バサラ、サラバ』に行こうね。(また薦める)

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常時補強モデル
 

 地震後にこのブログはまったく更新されていない。というのは、地震以外に書くべき出来事はほかに思いつかないからだ。

 どうやら我々の想像力も、思考も、感情もこのような大事件(災害)の前ではまったく無力となってしまうらしい。読書もまったく進まないし、文章を書く気にもならなかった。ツイッターと中国のマイクロブログを震災後に始めたというのもあるいは、もともと断片的にしか持続しないのに、さらに粉々になってしまった思考を何らかの形で掃き出さなければならなかったからかもしれない。

 今だってボードリヤールを読もうと思って本を開いたのだが、序論の段階で理解力がついていけなくなってしまった。そしてそのためにかなりイライラしている。何かが理解出来ないというのは耐え難い苦痛である、と言ったのはユングであるが、今、私が理解出来ないからではなく、理解しようとする行為それ自体すら困難となっているのだ。これは苦痛というよりも、崩壊に近い感覚であるかもしれない。今まで築いてきた知的な生活(といってもかなりお粗末なのものであるが)は、そもそもの基盤を無くしてしまったのだ。別の言い方をすれば、それは恐ろしく大きな地殻変動を迎えていて、活動的という積極的な意味にもとれる言葉よりも、むしろ基盤の上のあらゆる建築物を崩落させる死の舞であると言ったほうが適切だろう。そしてそのために新たな建築物の建設もまた不可能になってしまう。

 念の為に言っておくが、ここで言っていることはあくまでも個人的なことで、私のようなまだ建設途中にある人にのみあてはまることである。発展途上国にとって、大地震は絶望的な結果をもたらすが、幾度の大地震を経験し、そのための対策をずっとやってきた先進国にとっては、たとえいくらかの部分的な損害を被っても、それらの部分を修理し補強すればいい。しかしそれにもやはり限界があるように思う。というのも、より大きな変動に対処するために、元の建築物の構造自体を全面的に改変しなければ補強ができないようなケースも多々あるからだ。

 普段の生活を取り戻すためには、これから知的な基盤の再構築に取り組まなければならないのだが、地殻変動が常に起こるということを念頭においてそれをやらなければならない。そこで生まれるのは、より流動的な、より柔軟性を持った構築物である。構築すること自体の戦略はさまざまありうるのだが、絶対に必要なのは、補強されることに常に開かれているような構築のモデルである。私はこれを「常時補強モデル」と呼んでいる。構築物といえば、ひとつの完成されたものであると考えがちであるが、常に地殻変動を起し、災害をもたらしている基盤の上においてはそのような完成物は脆弱なものである。そういう意味で、この「常時補強モデル」は常に未完成であって、それが完成されるときは地殻変動が止まるときである。そしてこのモデルによって、材料の選別法から、組み立てプロセスや繋ぎ部分のレトリックまで、従来の方法に完全な変革をもたらすと考えている。

                                                         (よー)

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共産主義者のウサギと胃潰瘍のカメ
 
 私は共産主義者のウサギを「始末」することに反対だったが、組織の信頼を得るためにやらざるを得ない。胃潰瘍が悪化して入院中のカメと一緒に病院を抜けだしたあと、共産主義者のウサギがいる市民プールに向かった。そこでウサギが水中で薔薇を栽培する実験をしているらしい。

 私たちが到着したころにすでに日が暮れかかっていて、市民プールで泳ぐ人は一人もいなかった。その代わり、水面におびただしい量の黄色い薔薇の残骸が、まるで昼間の日光が水の中に閉じ込められ、そのまま分解されてしまったように浮いていた。胃潰瘍のカメは水面に目を向けた途端、嫌悪の感情で顔中が汗だらけになってしまった。彼は何かを嫌うと必ず大量の汗を流してしまうのだ。まるで嫌悪することが彼にとって一種のスポーツであって、大量の体力を消耗してしまうようだった。しかし、その嫌悪の運動によって彼の顔色は幾分良くなってきた。

 プールの脇に白い便座が置かれていた。その上に黄色いセーターを着た共産主義者のウサギが座っていて、トイレットペーパーを読むのに夢中だった。私たちは近づいて声をかけてみた。

 「おい、共産主義者のウサギ」

 返事はない。

 「おい」

 返事はない。

 しかたなく私たちは返事をもらうことをあきらめて、さっさとその共産主義者のウサギを「始末」した。そいつはもう死んでいることは明らかだった。なぜなら心臓は規則正しく一分間に七十五回を打っていたし、その口から黄色い薔薇の破片が閉じ込めてあるビー玉を絶えず吐き出しているからだ。胃潰瘍のカメはそれをまたもや嫌悪に満ちた表情で見つめ、大量の汗を流していた。

 私たちが帰ろうとした時に、胃潰瘍のカメは突然胃がひどく痛いと訴え、動けないと言い出した。私は一人で病院に帰って、共産主義者のウサギを始末したことを報告することにした。この結果に組織は満足し、今のままで頑張ってくれとのことだ。給料を上げてくれると一言も言ってくれなかったが、あるいはそう約束されたと私が勝手に思い込んでいただけかもしれない。いずれにせよ、信頼を得ることができたはずだ。

 しかし、次の日になっても胃潰瘍のカメは帰ってこなかった。私は彼を探すためにまた夕方に病院を抜けだして、日が暮れかかっている頃に市民プールにたどり着いた。あいかわらず水面におびただしい数の黄色い薔薇が浮いていた。でも前の日と違ったのは、プールの脇にあった白い便器が二つに増えていて、ひとつには共産主義者のウサギが座っていて、前の日と同じく夢中でトイレットペーパーを読んでいた。もうひとつの便座の上には胃潰瘍のカメが座っていて、おびただしい量の汗を流しながら、手のひらに載っている黄色い薔薇の花びらを見つめ、詩を朗読していた。

「病院の中では風が吹いている。外の世界は非常にそっけない」

(よー)  
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「座家」について語るとき、我々が語ること
 

 近は僕だけがこのブログを更新しているのは、出しゃばっているような感じで本当に申し訳ないのだが、暇人なので文章を書く以外に正直やるべきことがあまりない(本当はいっぱいあるけど)。中国語での「作家」という単語は、「座家(家に座っているだけの人)」という言葉と同じ発音なんだから、たとえ僕は「作家」になれなくとも、せめて「家に座っているだけの人」にだけでもなりたいと思っている。

 家に座っているだけの人がやることは文章を書く以外、たとえば本を読んだり、映画を観たり、ビデオゲームで遊んだりする。「作家」も一部そうかもしれないが、「座家」は基本的に裕福なブルジョワ的な生活をもっとも享受している職業であるように思う。鋤を持って畑を耕したり、重い道具箱を持って下水管の修理をしたり、工場でベルトコンベアーに向かって作業しながら、かつて李白が長江について謳っていた詩を思い起こしてため息をついたりしなくて済むような、この上なく気楽な仕事だ。もっともやっている本人としては、自分は芸術に関わる、人間の生を高めるような、大事な仕事に携わっていると思い込んでいるのだが。「思い込む」という単語には、「偏見と想像の介入によって事実と違うふうに受け取る」、という意味が込められているとあなた(誰?)が思い込んでいるかもしれないが、そうではない。いや、あるいはその通りかもしれない。ただ実際に芸術を解する「座家」もいる可能性も否定できないのだ。

 一般的な「座家」が読む本、観る映画、遊ぶビデオゲームとはどのようなものなのだろうか。「一般的」という言葉は、定義上の危うさを持っているが、それを突き詰めるのは僕の能力(少しだけだがあるんじゃないかなと思っている)の範囲を超えているので、ここでは問題にしない。「座家」たちは本に関して言うならば、ライトノベルはまず読まない。そこには芸術性の不在、パンの耳のような安っぽい感受性を感じているからだ。そして何よりもブルジョワに特有な、権威付けのないものに向ける軽蔑なまなざしを投げかけ、まるで本能の一部であるように反射的に拒否反応をしめすからだ。「座家」が読む本といえば、有名な作家(「座家」たちは作家を自分の同類とまで行かなくとも、少なくとも遠戚だと思っている)の名前にちなんだ文学賞を取った人の本とか、流行のフランス哲学者の入門書(原書のテクストは彼らには「いつか」読むものである)とかである。映画に関して事情はもっと複雑である。本当はお約束事満載のハリウッドのアクション映画を好んでいるのに、それを公言するのを恥じて、フランスのアート系の映画の映像が最高だからと言って、それらのようなものしか興味がないと言ったりする人もいれば、あえて大衆向けのB級映画をこよなく愛していると声高く宣言し、「大衆」が実際にわかっていないB級映画の深遠なる意味作用について延々と語る人もいるのだ。ビデオゲームのソフトのチョイスについては、そのジャンル自体に存在する「大衆的な」性質のため、「座家」とはいえ、それにヒエラルキーを作ることなどせずに、個人の趣味によってそれぞれ異なるため、一般的な傾向が見えにくい。ただ一つだけ彼らに共通して言えるのは、置型の家庭用のハードの方がポータブルのハードよりも上位に考えられる傾向がある。というのは、家に座っているだけの人たちにとっては、「ポータブル」という言葉は、きゅうりのしっぽぐらいの意味しか持たないからだ。

 「座家」について延々と書いてきたが、あまりの意味のなさにあなた(だから誰?)は落胆しているのかもしれない。しかし、「座家」志望で、「座家」について長年考えてきた僕からみれば、彼らの職業が持つ要素はおそらく部分的に一般の人々に深く浸透している。というのは、どんなに忙しい人であっても、家に座っているだけの日もたまにはあるだろうからだ。



以上のものはすべてフィクションです。本気で受け取らないでください。
(よー)
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